疑問
アレクサンダーテクニークでは、”the right thing does it self”という考えがある。この考えがあるため、non-doingで理想的な状態を導けることになる。
ただ、本当に”the right thing does itself”は正しいのだろうか?私はこれに疑問を持っている。
確かに、これも一つのアプローチの仕方ではあるのだろう。既存のATは一定の効果をあげてきたのだ。ただ、この場合は、次の二つのことがいえる。
一つは、自分一人で理想状態になれるようになるまで時間がかかるということだ。
non-doingの状態は、おそらく自分一人だけ3ではなかなか実現できないだろう。アレクサンダーテクニークのレッスンで教師からのハンズオンを受ける必要があるだろう。そして、よく言われることだが、20回から30回くらいのレッスンが必要だろう。
もう一つは、自分が理想状態にいるかどうかの確証を得にくいため、不安がつきまとうことだ。
何をもって自分が理想状態にいると判別するのか。「よけいにやっていることを全てやめられているか」を常に自分に問うことになる。「何かができているかどうか」は比較的確認しやすいが、「全てをやめられているかどうか」は、確認事項が必然的に多くなり、確証を得にくくなる。論法の観点でも、反例を一つあげることに比べると、全ての反例をあげることは極めて難しい。
不安と不確実性
よりよい状態に少しでも近づくのだから、学ぶ時間の問題はまだいいとしても、不安がつきまとうのはどうかと思う。
私はアレクサンダーテクニークを学び始めての最初の半年くらいは、レッスンで何をしているのかよくわからなかった。ただ、ハンズオンされつつ、教師とともにいくつかのプロシージャーをしたら、それなりに自分の状態がよくなった。そして、その後の4年かけて教師養成課程で学んだ。確かに、様々な活動をやりやすくなり、理想状態に近い状態になれたと思う。ある程度、自分をコントロールできるようになった。しかし、常に不安があった。本当に自分は最適な状態でいるのかと。それは人に教えるようになってからも、変わらなかった。
ただ、教える立場になると、その不安は邪魔者だ。教える人が迷っていたら始まらないからだ。この不安や迷いを抑圧する(隠す)ことが教師のやることになる。または、確証を得ずに不安をかかえている状態が、一つの理想状態であるように解釈していくことになる。
私が何かをつかんだときに、次のように言われた。「今のと同じ感覚を求めようとしてはダメ。明日にはまた新しい感覚になっているから。全く同じ感覚はないから」と。別の教師からは「何かをつかんだと思っても、それを手放す。それを繰り返すだけ」と。
おそらく教師として活動している方々も、これと似たような説明を受けたことがあるだろう。そして、似たようなことを自分の生徒に伝えているかもしれない。これは、不安を受け入れる、または不安であることが一つの理想状態である、と伝えているようなものだ。
「正しいこと」は見つかった!
ゴールを明確にしてそれを得ようとすることは、end-gainと呼ばれ、それはアレクサンダーテクニークでは「よくない」ことなのだ。
私は教師になる前からも教師になってからも、このことを考え続けてきた。本当に、the right thing does itselfなのかと。そのthe right thingは一体どういう状態を指すのか。それを誰もが理解できるように合理的に(蓋然性が高い)説明できないのか。やめるという消去法ではなく、the right thingを積極的に導くことはできないのか。そして、自分がthe right thingを実現している確証を得る方法はないのか。
そして、教師になって10年がかかったが、このthe right thingが明確にわかってきた。実際にthe right thingの状態はあり、それを他者にもわかるように合理的に説明できるのだ。the right thingに消去法でたどり着くのではなく、積極的に一直線に到達することができるのだ。そして、そこにたどり着いたことの確証も得られるのだ。
それが分かった今は、以前の不安は消えた。そして、もう一つの「時間がかかること」も改善された。より少ないレッスン数で、クライアントが自分自身で改善を導けるようになった。
もちろん、体の使い方はラクなままだ。様々な活動への応用もしやすい。スポーツなどの動きが早く、力強い動きにも応用できる。以前の不安をかかえていたときに比べて、私の現在の満足度は非常に高い。
教えることも具体的で明確であり、屁理屈や禅問答のような説明はない。これはとても大きかった。自分が心底納得していないものを、そのままクライアントに伝えることはとても大きなストレスだったのだ。これは、今だからわかることだ。
アレクサンダーテクニークはシンプルなのか?
「アレクサンダーテクニークは、とてもシンプルだ」と言う教師の人もいる。しかし、本当にそうだろうか。アレクサンダーテクニークが100年を経ても、メインストリームになっていない背景には、それが「よくわからない」ものだったからではないか。
教師の最初の大きな課題は、「アレクサンダーテクニークをどうやって説明しよう」だったのではないか?この説明に苦労した記憶がきっと全ての教師にあると思う。それくらい納得しにくい考え方が、既存のアレクサンダーテクニークにはあるのだ。
“The right thing does it self”の考えを持ち続けていれば、いつまでたっても理学療法学や運動学の関係者からは無視されることになるだろう。比較研究調査で、腰痛に対してアレクサンダーテクニークが効果がある、ということがわかった。ただ、その「アレクサンダーテクニークの理論は?」と問われれば、その答えの中に”the right thing does it self”が必ず用いられてしまう。しかし、科学に通じた人は、これはすぐに怪しいと考えるだろう。
アレクサンダーテクニークで求める理想状態は、確かに私たちに恩恵をもたらす価値があるものだ。それは間違いない。ただ、そこに至るアプローチの仕方が問題なのだ。このせいで、その与えられる価値自体まで毀損しているように思う。
アレクサンダーテクニークの教師と教師訓練を受けている人たちに訴えたい。もう一度、自分に問うてほしい。本当に”the right thing does it self”が正しく、それに任せるやり方が最適解なのかと。
天動説と地動説
コペルニクスが地動説をまとめあげるまでは、天動説が信じられていた。天動説でも天体の動きを説明することはできたが、複雑なものになっていた。地動説では、それをもっとシンプルな形で説明できた。その結果、地動説が正しいと評価されることになった。
説明しようと思えば、なんとかできるものである。ただ、それが真実でなかった場合は、説明できないことがあったり、説明が複雑になったりする。F.M.Alexanderの考えが元になっている既存のアレクサンダーテクニークの考え方や原理は、複雑でわかりにくく、真実を表していないのではないでしょうか。私には、少なくともより真実に近い説があり得るものと感じられます。
代替案となる仮説
そして、ぜひ私のアプローチを実践してほしい。私は、right or wrongという表現は用いません。私はadvantageous or disadvantageousという表現を使います。有利な体の使い方があり、それを知って、様々な活動で実践するだけです。明確なゴールがあり、そこに向かっていくだけです。directionの工程はあっても、non-doingの工程はありません。
どうですか。私のアプローチの方がシンプルでしょう。そして、従来のアレクサンダーテクニークと同等以上の効果を得られるんです。とにかく、これを試してみてほしいんです。
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