終わりに

有利な体の使い方 姿勢・動作・呼吸・発声




私はこの論考で,仮説ではあるが姿勢制御,運動制御の一つの理論を示し,それを基にした体の使い方の方法論を示した。この理論と方法論は,私のレッスンでしか検証されていないものである。レッスンでは,体の痛みや故障の改善,パフォーマンス向上に,一定の成果を挙げている。全ての人に完全な形とまではいかないまでも,状態の緩和など,それなりによい方向に導けている。これは私の一知見であるが,何かしら真実に近いものがあると自負し,私が日々実践しているものである。

「足底が止まっていることを考えて,腕を動かす」「発声の動作の際に,体位維持活動を同時にしていて,体を支える骨を安定させているから,よりよく発声を行える」ということを私は自身の経験とレッスン経験から見出していった。「何かが止まっているから,動作がよりよいものになる」という着眼点を持つようになり,それをきっかけとして様々な事象を見出すことができたと思う。「動くもの」と「止まるもの」という相対的な見方をし,いかに動くかという課題に対し,いかに止まるのかという視点を持った。

私はアリストテレス(前384-322年)が『動物運動論』[42]で述べていることを読んだ際に,本論考で述べた考えが,誰もが知る古代ギリシャの哲学者の考えと通ずるものがあることを知り,私の考えが的外れな方向を向いているのではなく,不変の事実の方向を向いているように感じられた。そのいくつかの節を以下に紹介する。

運動の起源は,起源であるかぎり,それより下の部分が動くときには静止しているものであって,たとえば前腕が動くときは肘が,腕全体が動くときは肩が静止し,下腿が動くときは膝,脚全体では腰が静止している。したがって,各動物は自体内に運動の起源となるべき静止点を有し,そこに身を支えながら,体全体としても部分的にも運動することになるのは明らかである。

しかし,動物体にどんな静止点があったとしても,体外に絶対的に静止していて動かぬものがなければ,大したことはできない。(中略)何か他のものを投げたり押したりする場合には,必ずまず体内の静止した部分に身を支えておいて押し,さらにこの部分はそれ自身,あるいはその部分を含む部分が外界のものにしっかり支えられたままでなければならない。

動物体の一部は動き,一部は静止していなければならず,この動く部分は静止した部分に支えられながら動く(中略)すなわち,動く部分は静止した部分に支えられているようなものである。

 

本論考の冒頭で,私がここで述べることは,「体に生じる余計な筋緊張を除くための方法とはどういうものか」に答えるものである,と述べた。そして,本文中で,様々な状態や動作においてそれを実現する指示について理由も含めて詳細に述べた。具体的に述べれば述べるほど単純なものではなくなってしまったかもしれない。ここで,この問いに対して単純化した答えも加えておきたい。

その答えは「体を支えていることに気づき,骨を立て,自身の重さを骨や支持面に預けること」と考えている。

正確な表現にこだわらずにいえば,体を支える活動においては骨と筋の負の相関があり,骨が有効に使われなければ筋緊張の動員がその分増えることになり,骨が有効に使われていれば筋緊張の動員がその分減る,とみることができると考えている。この見方でいえば,余計な筋緊張が生じていることとは骨を有効に使っていないことであり,余計な筋緊張を抜くこととは骨を有効に使うこととなる。

「余計な力を抜こう」と思っても余計な力である筋緊張が抜けずに悩む人がいる。このように単に力を抜くようにしても筋緊張が抜けない場合がある。それは,骨の使い方が変わっておらず,抜ける状況下にないからかもしれない。余計な筋緊張を抜くためには,やるべきことがあり,それが「骨を有効に使う」ことだと考えている。

その骨の有効な使い方が,「骨を立てて,自身の重さをその骨や支持面に預ける」ことである。骨を立てることとは,下の骨への荷重の仕方が最大面積荷重となるように骨の角度を調節することである。そして,骨を「つっぱり棒」として利用するようなものとなる。つっぱり棒が,両側の壁からの圧力を適切に受けるように角度調節されて,それ自体が動きにくくなる状態で利用されるように,実行者は骨の角度を適切に調節し,骨自体が動きにくくなる状態にしていくのである。これが有効な骨の使い方になる。

人によってはこの骨が立つという環境を構築するだけで,余計な筋緊張が抜けるだろう。しかし,過剰な筋緊張で支える感覚に慣れている人は環境を構築するだけでは余計な筋緊張を抜けない場合がある。それは,重力が自身に働いていることの認識がなくなってしまったためであろう。筋緊張に依存していればいるほど,しっかりと支え過ぎてしまい,倒れる力が生じていることの認識は希薄になり,それに対処していく感覚も希薄になる。実行者は,重力が自身に働いていることを再認識していくために,「自身の重さ」のことを考え,その「重さを骨や支持面に預ける」ようにする。これによって,抗重力筋の適度な働きを促すことができ,本来働く必要がそれほどなかった腹筋群や首の前側の筋群の過剰な筋緊張を抜けるようになるだろう。

そして実行者が「骨を立てて,自身の重さをその骨や支持面に預ける」には,自身への気づきが必要であり,そして「体を支えていることに気づく」ことが必要である。

神経生理学に詳しくなくとも脳の力が計り知れないことを私達は容易に想像できるだろう。そして,私達の生命維持と生活はその脳に依存するものであることも知っている。しかし,私が日頃から思うことは,体の使い方,特に体の支え方に関して私達は脳の自動的な働きを過信しない方がよいということである。私達が体位維持活動を脳の構築する自動プログラムに任せていれば,即席の不利な対応をしてしまう可能性があり,私達は知らぬ間に余計な筋緊張を加えてしまう場合があると考えているからである。

余計な筋緊張を除くことを目指す人は,即席なものに陥らないように,同じ脳でも合理的な思考を司る脳の働きを利用して,チェックしていくべきである。このための具体的な対処の仕方が,自身への気づきであり,よりよいものを選択していく意図である。自身への気づきは,脳の合理的思考を稼働させるスイッチに相当する。それが稼働すれば,実行者は選択を含むその後の意図の形成を,熟達していれば容易に行えてしまう。実行者がその際に気づくことは「どのように体を支えているか」「どのように呼吸しているか」である。余計な筋緊張を除くことを目指す人は,我に返るようにして,日頃から自身への気づきを多くするとよい。

 

この理論を基にした私の体の使い方の方法論は,既存のアレクサンダー・テクニークから導いたことであり,当然類似している。しかし,第11章で説明したように既存のものを補う形のものであり,既存のものとはやや異なるものでもある。このため,この方法論にアレクサンダー・テクニークとは別の名称を付けている。この体の使い方の方法論を「プレイシングメソッド」とした。プレイスとは,「置く」という意味である。ここで説明してきた方法は突き詰めていえば,私達の体の有利な「置き方」であるといえる。

他のボディワークでは,「グラウンディング」という言葉が使われるかもしれない。そして,樹木のようにしっかりと地面に根ざしているように立つことのイメージを実行者に促すかもしれない。しかし,ヒトには根があるわけではない。ヒトが立つということの特徴を客観的に述べれば,ヒトは両足で地面に乗っているということである。樹木のような構造のイメージは,私達ヒトにとって立つことの参考にはなりにくい。

ヒトが直立して立っているということは,樹木が立っているというよりは,置物が置かれているという概念に近い。そしてヒトは,置物でも非常に不安定な置物に相当する。私達ヒトが自身を立たせるにあたっては,その不安定な置物をいかに少ない負担で支えることができるか,そして安定させることができるかを考えるべきであろう。それを考えたものが,ここで述べた有利な体位維持の仕方となるが,それは有利な体の「置き方」ともいえる。

ヒトの直立を描写すれば,体軸の関節が複数ある細長い構造のものを二本の足で支えている状態といえる。このような構造のものが立ち続け,そして,その状態で様々な動作を行うのである。これは奇蹟とも呼べるものだと私は思う。二足直立が簡単にできてしまっている私達からみれば新鮮な驚きとして感じられないかもしれないが,二足直立ができない動物から考えればこれは奇蹟的なことと感じられるはずである。しかし,私達は直立できていることに驚きを感じるどころか,体を支えていること自体を忘れてしまっているだろう。何も考えずとも体位を維持する能力を獲得しているからである。

こうしたことから,私は多くの人に「私達が立っていること」,つまり「地面の上に乗る形でバランスを取りながら体を支えていること」の再認識を促したいと思っている。そして,私達が置物を置くように「自身の体を置く」と考えたときに,有利な体の支え方を実現しやすくなると考えている。これが「置く方法」という意味のプレイスメソッドと名付けた理由である。様々な行為をする際に自身を適切にプレイシングしていくことを人々に勧めたい。

私は多くの人に体の使い方,特に体の支え方に配慮していくことを促したい。多くの人が自身の体の使い方に配慮していない結果,体の問題を抱えてしまうように感じているからである。私達が体への負担を軽減し,自身の本来の能力を発揮するためには,自身の体の使い方に配慮することが必要であると考え,ここではその配慮の仕方を述べた。体の使い方に配慮していくことは,自身の体に注意を向け,自身の体を思慮深く丁寧に扱うことともいえる。

現代社会では変化も早く,また様々な刺激があり,私達は行動や思考を忙しくしやすい。ストレスも多いだろう。この環境は,私達が自身の体の使い方に注意を向ける余裕をなくしやすい環境といえよう。そして,私達はストレスなどの刺激に自動的に体を反応させていくことを容認し,社会的要請に対処していくことのみを考えて生活していたりする。このため,私達は体位維持の仕方を即席なものとしてしまい,筋緊張を強いものとして,体に負担を課してしまう。この負担によって自身の健康状態を劣化させてしまう。負担の程度が大きければ,生活や仕事における活動を継続できなくなる場合もあるだろう。これは結果的には,私達が自ら自身の体を乱暴に扱っているとみることができる。

これは,私達が望んでいることではないのではないか。私達は他者への奉仕や社会貢献に生きがいや精神的充足,喜びを感じ,多くの場合はそれを仕事としながら生きている。しかし,他者への奉仕や社会貢献を行うにあたって,自らの健康状態の質を下げたいとは思っていないだろう。そして,自らの健康状態の質を下げないようにしながら,他者への奉仕と社会貢献をすることで,私達は自らの最大限の力をその活動に充当していくことができるといえるだろう。そして,それによって私達は精神的充足や喜びを深めることができるのではないだろうか。

私達の人生における全ての活動は,体と共に行われるものであり,体の上に成り立っているものである。私達は常に体と共にあり,常に体を用いているのである。貴重品と体はどちらが大切だろうか。私達が貴重品を大切に扱うように,人生を生きる道具ともいえる与えられた体を,私達は大切に扱うべきだろう。

私達が自身の体の使い方へ配慮していくことは,自己を大切に思うこと,自己を尊重していくことともいえる。社会的要請も大事であろう。他者も大切であろう。そして,同時に自己も大事であり,尊重すべきものであろう。よりよく生きることを目指す人には,自己の優先順位を下げずに自己を尊重し,自身の体の使い方に配慮をし,様々な活動を行っていくことを勧めたい。このようにして自己を大切にすることができれば,他者を大切にする活動を通じて,私達は生きがいや精神的充足,喜び,安らぎをより感じられるようになると考えている。

 

この論考が研究者の方々の関心につながれば嬉しい。そして,批判を含めて意見をもらえれば嬉しい。また,アスリートやトレーナー,様々なパフォーマーや指導者の方々には,ここで提案している方法論をパフォーマンス向上の一つのアプローチとして試験的にでも導入してもらいたい。そして,この論考が,多くの人の体の使い方への配慮を促し,人々のパフォーマンス向上,健康状態の質の向上につながることを願っている。

F.M.アレクサンダーの洞察と探求に敬意を表したい。私は,彼の発見は私達の人生の質を向上させるものだと信じている。そして,彼の発見を洗練させながら,現在まで伝承してこられたアレクサンダー・テクニーク指導者の先輩方にも敬意を表したい。

脚注

[42] アリストテレス(島崎三郎訳)「動物運動論」『アリストテレス全集9』 岩波書店,1969年。

(論考「有利な体の使い方」終わり。引用文献はこちら)
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