2. 心理的プレッシャーを受ける時の対処(つづき)
見られること,見ることを受け入れる
私達は人前に出て何かの行為をする際に心理的プレッシャーを受けやすい。演奏の本番,スポーツの試合,プレゼンテーション,スピーチ,特定の人を前にして話すこと,などの場合である。こうした場合の実行者の有効な対処は,自身に気づき,有利な体の使い方を意図して実現していくこととなると説明した。これに加えて,「人から見られること」,また「人を見ること」を実行者が受け入れていくことも役立つと考えている。
「人から見られると恥ずかしくなって緊張する」人は,人前に出ている際に「人から見られないようにする」試みを無自覚に企てやすいように考えている。それが例え不可能なことであるにもかかわらず,である。その「人から見られないようにする」試みが,体の筋緊張であったり,脊柱を屈曲させて頭部前方突出させて「自身を小さくさせる」ことであったり,「身を引く」ように上半身を後ろにして重心を踵側に乖離させることであったりする。しかし,これらは「見られないようにする」役割を全く果たさない。そして,この役立たない試みによって,動作や発声,呼吸といったパフォーマンスに関わることを劣化させてしまう。これは,実行者が「人から見られる」という事実を受け入れていないために起こることと考えている。
また,こうした人は「人を見る」ことも回避しようと試みてしまうかもしれない。「人を見る」と,その人が自身を見ていることの認識を強くしてしまうからであろう。こうした人は,人を見ないことで,あたかも「人から見られる」ことを回避できるかのように考えてしまうのかもしれない。この場合においても,実行者は前述した不利な反応に陥りやすい。これも,実行者が「人から見られる」ことを受け入れていないために企ててしまう試みであると考えている。こうした実行者の無自覚な試みは,あたかも他者の行動を実行者自身がコントロールできるかのように考えたもので,不可能な試みであり,不利な試みである。
有利意図の人は,人前に出ることになった場合は,それが例え苦手なことであったとしても,まずは「人から見られる」という避けられない事実を受け入れることである。そして,自身も「人を見る」ことを受け入れることである。実行者は人前に出る以上は,何をしようとも「人から見られる」「人を見る」ことになり,それは避けることができない。その上で,恥ずかしさを感じたとしても自身の体の状態に気づき,有利な体の使い方を意図的に実現していくことを積極的に考えていくべきである。特に,支持部位を考えて,そこに体重を預けることを意図し,呼吸や呼吸の仕方を把握していくことが,不利なパターンの回避に役立つことになる。この試みの方が,心の状態を落ち着かせやすいものとなるだろう。
空間と時間を自身に与える
人前などで心理的プレッシャーがかかる際に考えるべきこととして,レッスンでクライアントに勧めていることは,自身に気づいた際に「空間と時間を自身に与える」ように考えることである。
「空間を自身に与える」と考えることで,実行者は自身が立っている床面とその上の空間を「自身のスペース」と認識して,そこに自身の体重を預けて自身の最大の長さで立っていやすくなる。また,「時間を自身に与える」と考えることで,実行者は自身のペースを保ちやすく,呼吸をゆっくりと行えるようになり,気持ちを落ち着かせやすくなる。
一定の割合の人は,人から見られていたり,慣れない場所にいる時に,あたかも「そこにいてはいけない」かのように考え,床面に体重を乗せないように筋緊張を強くして体を支えてしまいやすい。また,「短時間で済ませてしまおう」として動作や話す速度を速くしてしまいやすい。そして,その過剰な筋緊張ゆえに息をつめて,呼吸を浅い状態にしていやすい。こうした体の反応は,実行者の「遠慮」の気持ちを体位維持の仕方として表してしまったものといえるかもしれない。
遠慮という他者への配慮も大切なことであるが,有利意図の人は自己の尊重も同時に考慮すべきである。たとえ実行者が立っている場所が他人が所有権を有する床や空間だったとしても,たとえ実行者が他人から見られていて,そこにいることが居たたまれないと感じていても,実行者がそこに立っているのであれば,実行者はその床と空間を「自身が立ってよい与えられた床と空間」と考え,そこにいる時間を「自身が使ってよい与えられた時間」とあえて考えるのである。
これは人前でのパフォーマンスをする歌手,俳優,ダンサー等に提案していることである。こうしたパフォーマーが「空間と時間を自身に与える」と考えていくことは,その人の「存在感」を高めていくことに貢献すると考えている。
私達は空間と時間の中に存在している。実行者は「空間と時間を自身に与える」こと,つまり空間と時間の中における自身の反応の権利を得ていると認識していくことで,空間と時間の中で自己を存在させる最適な選択を行えるようになるだろう。他者がこのように選択している人,つまり存在している人をみると,その人に「普通の反応とは違う何か」をみることになるだろう。それは見て特定できるものかもしれないが,そうではなく単なる印象として残るものかもしれない。しかし,他者はその人にその人特有の反応の仕方,つまり存在の仕方を何らかの形でみるだろう。他者はそれを「存在感」と感じ,その人を「存在感のある人」と評価するのではないかと考えている。存在感を高めたいと考えるパフォーマーは,何も考えずとも実現してしまう自身の存在の仕方を放置せず,それを意図的に選択していくようにするとよい。「空間と時間を自身に与える」と意図することは,このような形でパフォーマーの存在感の醸成に役立つと考えている。
体の恐縮
役職が上の人や先輩などの目上の人と話したり,セールスで顧客と話したり,初めて会う人と話したりする際に,自身の体を少し曲げるようにして小さくし,筋緊張を強く入れてしまう人がいる。これも心理的プレッシャーを受けた際の反応であり,即席保全の反応と考えている。こうした人は,腹筋群と首の筋群に強い筋緊張を生じさせて,腰椎や胸椎を屈曲させて,頭部前方突出と頸椎伸展を生じさせていることが多い。骨盤スライド後傾も起こしているだろう。また,人によっては腕にも強い筋緊張を生じさせている。こうした人は,骨傾斜によって自身の体を小さくし,かつ体全体の筋緊張で重心変位に対処する形で体位を即席で保全しているとみることができる。
「恐縮する」という言葉は,一般的には「申し訳なく思うこと」という心理面における感情を表す。また,ある人が申し訳なく思っている時のそのさまも表す。そのさまとは,「恐縮」の漢字が示すように「おそれて身がすくむさま」である。つまり,「体が縮むさま」である。このように,一定の割合の人は申し訳なく思うという感情を持つ際に,体でもそれを表現してしまいやすい。この体の反応は前述した体を縮ませる反応であり,私は「体の恐縮」と呼んでいる。
この体の恐縮については,意図してそれを行っている人もいるだろう。意図せずに無自覚で行ってしまっている人も一定程度いると考えている。何度も体の恐縮を意図的にしているうちに定着し,無自覚でやってしまっている人もいるかもしれない。または,他の人が体を恐縮させていることから,このようにすべきものと無自覚に認識して模倣してしまっている人もいるだろう。私もこの一人であったと思う。
体を恐縮させる人は,自身の体を縮ませて自身を小さくすることにより,「相手を立てよう」とする。謙譲を体で表現しているのだろう。これによって,実行者の対人関係がよりよくなる場合もあり,実行者が採用してはいけないわけではない。しかし,実行者はデメリットもあることを認識した方がよいだろう。デメリットとは,体への負担に加えて,相手に与える信頼性が逆に下がる可能性である。この対処は,受け手がどのように考えているかでその価値が変わるものである。体の恐縮を行う人をみて,そのさまを謙譲として捉えてそれを良しとする人もいれば,そのさまを卑下している印象から「自信の無さ」と捉える人もいる。相手次第で価値が変わるものである上で,体への負担もあることから,有利意図の人は無自覚に体の恐縮をさせるべきではないと私は考えている。行うのであれば意図して行うようにして,習慣としないように考えるとよい。
人によっては体の恐縮を習慣としてしまい,目上の人だけではなく全ての人と話す際に体の恐縮を行ってしまっている。こうした人は,デメリットの影響を多く受けることになり,体の負担とコミュニケーションの両方の面で損を被ることになりやすいだろう。
体の恐縮という反応の是正を目指す人は,こうした感情を持ちやすい状況において自身の状態に気づくようにし,「支持部位に体重を預け,呼吸をする」ようにする。そして,特に頭を最高位置に位置づけておくことを意図するとよい。こうした状況下では,実行者は腹筋群と首の筋群を強く筋緊張させやすくなっており,腰椎や胸椎の屈曲,胸郭前傾を起こしやすい。こうなれば,頭部前方突出と頸椎伸展となって体が縮んでしまう。実行者が,頭を最高位置に位置づけ続けようとすることで,筋緊張に拮抗して骨傾斜を抑制することができる。実行者は立骨状態を維持できるようになり,自身の本来の大きさでいられるようになる。
是正を目指す人が立骨状態を実現して人と相対するときは,「自分を大きくしている」ように思うかもしれない。しかし,それは自身の本来の大きさでいるだけであり,尊大にしているわけではない。体の使い方というのは自身のアイデンティティーに関わるため,人前でそれに変化を与えるにあたって難しさがある。是正を目指す人は,こうした違和感を受け入れていくようにする。
コメント